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投稿No.6871
投稿者 しほ (35歳 女)
掲載日 2017年12月28日
私には10歳になる娘がいますが、父親はいません。
むしろ、父親が誰かハッキリはわかりません。

私が25歳の時、結婚はしたくないけど子供は欲しいと思い、しかし恋人などつくるのも面倒だったのですが、どうせなら楽しみたくネットで孕ませてくれる方を複数人募集しました。
集まったのは少し年下からおじさんまで7人でした。
私は子供が欲しいので危険日を狙った日に種付けしてもらうことになり、もしそれで妊娠しなくてもまた次の危険日にも種付けをお願いしました。

ホテルに集まり記念にとの事で撮影もしながら始めました。
キスをしたりフェラをしたり、胸やオマンコを舐められたり、オマンコをひろげ至近距離で撮影もされ、まず最初の方が挿入し正常位で中出しされました。
お掃除フェラ中に次のオチンチンが挿入され最初の精子も奥に送り込むようにピストンされ中出しされました。
次のオチンチンが挿入される時は、出された精子があまり溢れぬように、まんぐり返しの状態で奥の奥までピストンされ、たっぷり中出しされました。
そのあともフェラをしつつバックで挿入されたり、またまんぐり返しの状態や騎乗位もしたりしながら、気持ちよすぎてお漏らしや潮まで吹き、種付けをされました。
ほぼ丸一日種付けをされ、帰る時には精子か溢れぬようにオマンコに栓をして帰りました。

家に帰ったあとも、まんぐり返しの格好でディルドを突っ込み精子が奥まで行くようにグリグリとかき混ぜました。
そしていつもなら生理が来る日に生理はこず、妊娠検査薬で調べたところ妊娠反応があり、病院に行き、ハッキリと「おめでた」を貰い、種付けをしてくださった皆さんにも報告をし「おめでとう」とお祝いしていただきました。
そして安定期にはいり、時々種付けをしてくださった方々とセックスをし、出産後も数人の方が抱っこをしてくれて、ほかの方も「出産おめでとう」とまたお祝いしてくれました。

子供には「貴女がお腹にいるとわかった時にはお父さんとは別れていた」と説明しています。
普通ではないけど、いろんな優しい方々の精子でこの子が生まれてきてくれたので、とても幸せです。
改めて種付けをしてくださった方々にありがとうございます。と申したいです。

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カテゴリー:アブノーマル
投稿No.6807
投稿者 さとみ (31歳 女)
掲載日 2017年11月01日
最近このサイトを見つけて、夜な夜な開いては体験談を読んで、いけない自慰行為に耽っています。
今は子育てと仕事に追われ、カレシを作る精神的余裕も無いため、中出し依存症…というか男性に中出ししてもらわないとオーガズムに達しない身体になってしまった私は、自慰行為だけでは、その場しのぎの満足さえできません。

私が妊娠したのは、今から3年前、大学院生で博士課程後期3年目の時でした。
相手は研究室の指導教授。
当時50代前半でした。
もちろん妻子ある方です。

先生との最初の関係は、まだ私が博士課程前期で、修士論文に悩み、突然引き込もってしまったことが始まりでした。
学業に関してはさして挫折なく過ごしてきた私にとって、学部卒業後、大学院生になってから、研究室の院生会議(自分の研究活動を報告しあったり、指導を仰いだりする。)で自分の学問に対する無力さや、高い壁を感じたり、先輩や同期生がすごく進んでいるように感じ、このまま修論を完成させられるのか?と自信を失い客観的な自己診断もできなくなり、後期に入った大切な10月頃(修論提出は12月上旬でした。)2週間近く自宅アパートに引きこもるようになり、スマホもオフにして外界から、自らをシャットアウトしてしまったのでした。
安否さえ不明になり、先生は研究科の事務を通じて私の実家に、音信不通になっている状況を報告したようでした。

私の実家には母しかいません。
私は独りっ子で、父は私が小学校高学年の時、38歳の若さで大腸癌を患い、検査を受けた時にはステージ4。
肝臓や肺にも癌が転移していて、手術したものの、数ヵ月で他界しました。
幸いに母は当時、地元の法律事務所で、司法書士として働いて自立していたので、父他界後の私の生活には、影響はありませんでした。
母は二人ではもて余す一戸建ての自宅を整理して、2LDKのマンションに転居し、父の保険金を私の修学資金に貯蓄しておいてくれました。
そのため、私は地方から東京の大学に進学し、独り暮らしや、大学院進学までできたのです。
母も急に私が音信不通になったので心配しているところでした。

引きこもり3週目に入り、ある時アパートに訪問者がありました。
指導教授の先生でした。
私は髪はグチャグチャ。数日間お風呂にも入っておらず、食事もろくにしていませんでした。
部屋も荒れ放題です。
最初はドア越しの会話でした。

「先生…すみません。今は出られません。すみません。いつかきちんと学校に行ってお話します。それまで一人にしておいてください。」
「さとみさん。それは…もう貴女は大人なんだから任せるけれど、とにかくお母様に心配かけるのだけはやめて今の状況をお話しなさい。私も…私でよかったら学校に関することは聞いてあげるから。携帯を通話できるようにしてね。今夜9時に私から電話するから、そのときには一言で良いから、声を聞かせてね。では帰ります。」

先生は、そう言って帰って行きました。

その晩、突然地域の警察署から、地域課の刑事さん二人がやってきました。
音信不通に業を煮やした母が、警察署に調べてもらうよう依頼したのです。
突然の警察官の来訪に、私はドアを開けました。
二人のうちの一人の婦警さんが、訳を聞きました。
私は簡単に事情を説明しました。
その後、婦警さんの前で、母親に電話をするよう求められ、最初に婦警さんが母と会話し、状況を説明して帰って行きました。
母には私は泣きながら今の状況を話しました。
母は「年限ギリギリまで大学院にいていいから、焦らずに始めた勉強は一定の完結をさせなさい。お金のことは心配要らない。」と話し。後日、「研究室の先生にきちんとお話しなさい。」という手紙が来ました。
その晩先生とも電話で話をしました。

先生が毎晩電話で私の話を聞いてくれたおかげで、私は3週目を過ぎてやっと、大学に行く事ができました。
そして、学生支援センターのカウンセリングルームを借りて、先生と直接お話をしました。
自信を喪失したこと。研究の壁を感じたことなど。

先生は優しく私を諭してくださいました。
「さとみさんは、真面目すぎるよ。修論はね、学内審査だけだから、今までの積み重ねの通過点をやっつけでいいから、論文に仕立てればそれでいいんだよ。私だって自分の修論なんか、今は恥ずかしくて見ることもできないよ。1ヶ月くらいでやっつけたからね。」
私は先生の優しさへの感動と、以前から尊敬していた感情が入り乱れて、先生に抱きついて泣いていました。
数分だったのでしょうが、永い永い安らぎの時間でした。

それ以来、私はその年度の修論提出はあきらめて、前期課程は3年在籍することにし、研究室では、先生の個人助手のように過ごしました。
前期課程(M…マスター)3年で修士課程を修了し、先生とは師弟を越える一戦をも越えました。

ある日、先生の学会のお供に、地方都市に滞在していた時のことでした。
私は夜、先生の部屋を訪れました。
私は先生の気を引こうと、ピンクのシルクサテンのガウンの下に、透け透けのランジェリーを身につけ、隣の先生の部屋に逆夜這いをかけたのです。
先生は読書中でしたが、私の胸の谷間をちらつかせ、太股までチラ見させた姿と熱い抱擁に負けて、私をすぐさまベッドに押し倒して抱きました。
先生もプライベートでは男です。
さらに、普通のシティーホテルには、コンドームなど置いてありません。
もちろん中出しでした。
尊敬する先生に全身を愛撫され、キスされ。
私も先生の固くなったぺニスを愛しさのあまり舐め貪り、身も心も熱くなり、興奮した先生はそのまま精子を私の膣内に2度放ちました。

それ依頼、私と先生との肉体関係は定期的に、月1くらいで続きました。
先生は私の妊娠を心配して、当然避妊を勧めてきましたが、私はセックスの流れの中で、
「そのまま先生のを生でください!すべてを私の中にください!精子を私の中に出してください!」
そう言って先生を扇情させました。
先生は毎回その扇情に負けて、生中出しを続けていきました。
以来、私はゴム着では、味わえない生中出しの虜になりました。
それは相手が敬愛する先生でもあったからです。
毎回のセックスで、その度に体感するオーガズムは高まっていきました。

先生は私が生挿入、生中出しをせがむと、次第にセックス全体がより情熱的で野性的になりました。
明らかにそれは、男の生殖本能そのものでした。

私の方は、膣内に挿入され、膨張した、むき出しのぺニスで私の膣壁が圧迫されると、ぺニスの脈動を感じます。
さらに射精に至る瞬間に、密着している先生の骨盤からぺニスの根本を通じ、先端の亀頭にまで先生の痙攣が伝わります。
その生殖の息吹というものが、射精によって私の子宮口まで、生命の発端を運んでくれるのです。
それによって私も全身を痙攣させてしまいます。
オーガズムに達するのです。
決して医学的な膣痙攣ではありません。快楽の絶頂を迎えた時の全身の喜びの痙攣です。
そうです。愛する人に中出しされるということで、私は精神的にもその時その時を経て、女から雌へと変わっていきました。
そうして、先生が私に中出しした後、ぺニスに滴る精液を舐めつくし残液を飲み愛することも性癖になりました。
ぺニスの先端を強く吸うと、残液が吸い出され、先生も悦楽に入っていたのが、私には嬉しく感じられました。

それを繰り返しているとき、生理が遅れた時がありました。
私は初潮からずっと、28日±2日くらいで定期的に生理がきていたので、検査試薬を使わなくても妊娠したことを確信しました。

いよいよ1ヶ月経過して先生との逢瀬の際に、しっかり先生の精子を体内に受け止めてから、先生のぺニスに滴る精子をいつものように舐めて残液を吸い味わいながら、
「先生…私…先生のこの精子て妊娠しました。」
…と産婦人科の診断結果を告げました。
先生興奮がすっかり冷め、かなり狼狽していましたが、私が喜んでいることに、さらに困惑していました。
そして当然、中絶を勧められました。
しかし、私は生来カトリック教徒の家庭で育ちました。
幼児洗礼を受けています。
カトリックのみならず、プロテスタントでもキリスト教徒は中絶を認められません。
もちろん不義姦婬の罪は犯して、キリストと聖書の教えに逆らって来たのですが、「愛の為」だという「真実」を毎週のミサの後、司祭様に告白懺悔をすることでなんとか許されてきました。
カトリックでは、実は自慰行為さえ罪なのです。
私は毎日お祈りのなかで、聖書と祈祷書とロザリオのマリア様とキリストの十字架に懺悔を繰り返しています。

私の中絶拒絶により、先生は数日間かなり疲労困憊していたようですが、ある日、大学近くの談話室の個室に呼び出され、今後の条件を提示されました。

・出産しても認知はできない。
・私の母には先生から、内容証明付きの書簡で事情を説明して謝罪する。
・私の将来については自立できるような責任を取る。(大学の助教もしくは、それに相等した給与と出産育児に必要な社会保障の受けられる職を用意する。)
・博士の学位については、専攻分野の関係で保証できないが、博士課程修了単位修得満期退学まで出産育児に要した期間の経済的な面倒は一切困らないように面倒を見る。
・この後、私と先生の関係はなかったものとする。

このような事が念書として、書面化され、先生の署名がなされ、実印が押印され、印鑑証明添付、拇印まで押印されていました。
そして2通用意されたものに私も署名捺印しました。拇印も押印しました。
最後に1通ずつ、先生と私が保管することになりました。
先生は公証人役場に行き、これを公正証書としたようです。
私にも求められましたが私はそこまでしませんでした。

そうして、私は大学院博士課程後期を最短で3年のところ、出産育児に1年休学し、4年かけました。
大学院を博士課程前期後期合わせて7年かけて、最終的には学外教授の審査も経て、文学博士の学位を得られました。
私の博士論文は国立国会図書館の蔵書になったのです。
それは先生の影ながらの尽力があったからです。
さらに、先生の推薦を得て、某私大の助教に採用されました。
私が未婚の母であることは、すでに少なくとも学部内の教員、職員には周知の事実ですが、私は淡々と講義や研究論文の作成に取り組んでいます。
もちろん来年は3歳になろうとする、わずかに言葉を発するようになったわが子にも愛情を注いでいます。
わが子は戸籍の父親欄が空白の、父親のない子です。
これから、大きくなってその事がわが子の足枷にならないようにすることこそ、私が今後取り組むべき最大の課題です。

私の恋愛…それはしばらく封印してきましたが、また生挿入生中出しの快楽の記憶が甦って、毎日、子どもが寝静まってから、トイレでバイブのお世話になる毎日なので、子どもを保育園に預かってもらえる時間に逢えるセフレができないものかと探しています。
時折、若い男子学生を誘惑するようなブラウスやミニタイトスカートを身につけて、身近なところで、虎視眈々と獲物を狙っているのです。
私はやがてカトリック教会をも破門されるでしょう。

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